© The New York Public Library, 2016
第二次世界大戦後もアメリカの支配下に置かれたものの植民地にはならずに済んだ日本ですが、実は明治時代はイギリスの植民地であったと言われている真相はご存知でしょうか。
幕末から明治時代にかけて日本はイギリスの植民地だったとされる真相とは
植民地拡大において、世界の覇権争いを繰り広げる国々にとって日本は極東に残された最後の標的だったとされています。
ある程度商工業も発達し近代的な都市が形成されている日本を支配下に置きたいというのは世界各国の希望でもあり、開国へ導くように勧めたのです。
その後米、英、仏、蘭、露との間に修好通商条約が締結されますが交渉の際に中立な立場に立って一役買ったのがイギリスであり、煮え切らない江戸幕府よりも前進的な反幕府側の方が話が通ることから、イギリスは倒幕側に味方し明治維新を手伝い近代化を図るのに協力したとされています。
各国列強を前にして戸惑っている日本に対して良い方向に進むように手助けをしてくれたイギリスに対し、その通り素直に従ったと言えばそれまでですが、明治維新後に近代化を図る上で政治や経済、社会制度に至るまで模範国としたのはイギリスであったとされており、そういう意味ではイギリスの都合の良いように開国が進み明治時代に入り近代化が進んだことを考えると植民地であったという考え方もあるかもしれません。
二院制による議会政治や鉄道、郵便制度などはイギリスを模倣したものであり日本海軍や商船団における援助も継続されていたこともあってイギリスが幕末の貿易シェアの75%を支配していたことを考えると、日本がイギリスの植民地でもあったと考えるのは当然と考える人もいることでしょう。
日露戦争においては、大国ロシアに勝利したものの、イギリスに多額の借金をしていたことは事実だとされており、持ちつ持たれつの関係であったことは確かなのかもしれません。
明治時代における日本の植民地はどこ?
明治時代は自国の周辺の国が植民地になるだけでなく日本自体も植民地になる危険性が高いとされており、実際には半植民地化した状態であったという考えもありますが、日本における植民地とはどんな国だったのでしょうか。
日本が戦争などによって獲得した植民地、あるいは支配下に置くことになった国としては台湾や朝鮮、南樺太や満州、そのほかインドネシアやタイ、マレー、フィリピンなどだとされています。
しかし、すべての国を同じように占領し支配下に置き、植民地化したのかというと少し話が変わってきます。
日本は、戦争によって得た領土を拡大してもちろん自国の利益にしようとすることも考えていたとされていますが、それだけに限らず後進国であったそれらの国を独立させ発展させることも目的としてあったとされています。
また、朝鮮のように「手が付けられないし併合してもあまりメリットはないけどロシアなどの他国に取られるよりはマシ」という考えから仕方なく併合することを決意するなど渋々だったこともあったようです。
福沢諭吉も植民地論者だった?
そもそも日本が植民地を保有することは食料の安定した供給などだけでなく国としての威信や軍事戦略上の配慮などから植民地を求めたことから、実際に植民地を得た後にはどうやって経営していけばいいのかということまでは考えておらず、経営にあたっては右往左往したり現地の人々に対してつらい状況を作ることもしばしばであったとされています。
一万円札に印刷されているかの有名な福沢諭吉は、「天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず」という言葉で有名ではありますがこの言葉を外国との対外関係には適用しようとはせず、近代化を目指すにあたって日本に植民地を作ることは賛成であったとされています。
欧米諸国がアジアの地域を植民地化してきたように、日本においても中国や朝鮮を支配するようになるのが理想という考え方だったようです。
朝鮮における植民地政策においては、学校教育にて朝鮮の歴史を教えることを禁じ日本語で話すように強制したり姓名を日本式にするなどの政策を取られ徴兵制や従軍慰安婦問題については現在でも語られ日本に対して韓国が明治時代や戦後のことについて賠償を求めることもあり問題にもなっていますが、しっかりと殖民地政策を強いた国もあれば一方で殖民地化に置かれたものの日本に対して親日思想を持っている台湾やインドネシアの人々などもいるとされていますので、植民地支配にも差があったのかもしれません