明治時代における演劇とは従来の歌舞伎を逸脱することだった?

明治時代k (21)© The New York Public Library, 2016

宝塚や劇団四季など、お芝居が好きな人たちにとって演劇のライブ感はテレビや映画では語りつくせいないほどの臨場感を味わうことができる唯一の場と言えます。

現在は劇場で上演されることが多い演劇は明治時代にはどのようなものだったのでしょうか。

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明治時代における演劇改良運動とは?

それまで日本において演劇と言えば出雲阿国をルーツとした現代にも続く歌舞伎が中心でしたが、明治時代に入り西洋の演劇などの知識が入ってくると、日本古来の古めかしい歌舞伎を近代化に向けたものにしようと明治時代の政治家であった末松謙澄は、明治19年に劇場を遮光場とすることを主張し、伊藤博文や井馨、渋沢栄一などの大物政治家たちも参加させ「演劇改良会」を結成します。

それまでの歌舞伎を上流階級の人間や外国人が観劇するのにふさわしい内容に改良することを求め、演劇を講演する劇場の洋化のために劇場の建設において3階建ての煉瓦石造で椅子席を配置するようにしたり、歌舞伎においては女形を採用していたのを女優を使うように指示するなど細かい規定を求めたとされています。

その他にも、西洋がそうであるように幕間には気分を鎮めるような音楽を流したり花道は必要とせず、人形浄瑠璃から移行した歌舞伎狂言でチョボと呼ばれる義太夫狂言を廃止するように意見したり、脚本や台詞などにも改良を求めたとされています。

簡単に言うと、今まで狂言(作り話)ばかりだった歌舞伎の話の道筋を作りものではなく現実の世界を描く話にして、外国人や身分の高い人にも見てもらえるよう内容にしろと演劇改良員たちは歌舞伎役者たちに求めたわけです。

成功しなかった演劇改良運動

それまで、歌舞伎というのは現実の世界を作品の中で描くことは禁じられていたからこそ「狂言綺語」という形で作ってきたいわば長年にわたって築いてきた大切な価値観であったのを、文明開化や近代化に向けて全く逆な世界観を作れというのは伝統的な江戸歌舞伎を演じてきた役者たちにとってはそれまでの歌舞伎の歴史を否定されたようなものだったのです。

そのため、改良を求めたところで実際に演劇をする側から見れば知識人や上流階級、外国人に喜ばれるような狂言をしていては一般の観客が離れるといった理由から、旧劇の方では歯牙にもかけていなかったとされています。

一方で、活歴物と呼ばれる一連の作品群の芝居の中心となった9代目市川園十郎は、明治政府の芝居に対する考え方と自分の意見が一致していたこともあり、それまでの歌舞伎の価値観に反し現実に即した演劇をするようになり徐々に園十郎の演技志向も共感を得るようになると園十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応されるようになると今日の歌舞伎の演技の基盤となっていくのです。

この演劇改良運動が成功したとは言い難いですが、井上馨の邸宅に設置した仮舞台において当時の看板役者であった團十郎、菊五郎、左團次らによる「勧進帳」を明治天皇が観劇するなど歌舞伎の社会的地位を上げるのに貢献する形となったとされています。

「大芝居」も「小芝居」も大して差はなかったのに扱いに差があった?

そもそも歌舞伎は常設の小屋を持たず全国を巡業して公演するのが一般的だったのですが、江戸時代に幕府が江戸や大阪、京都にあったいくつかの劇場で歌舞伎を上演することを公に認め、ここで行われる芝居のことを「大芝居」と呼び、寺社境内で行われる掛け芝居を「小芝居」と区別し、大芝居においては日本芸能の中心となっていきます。

小芝居とは別に全国各地で旅をしながら巡業する劇団の芝居は旅芝居呼ばれ、「大芝居」「小芝居」「旅芝居」はレベルや技術の差、洗練のされ方には隔たりがあったとされています。

一方で、「大芝居」も「小芝居」もそれほど中身に大差はなかったにもかかわらず「本流」と「亜流」という流れを汲んだまま明治時代を迎え松竹や明治政府に手厚い保護を受けた「大芝居」はやがて国劇として認知され発展していきます。

官許芝居となった「大芝居」のことを「大歌舞伎」、小芝居を「中歌舞伎」という呼び方が一般化しますが、その後歌舞伎以外にも節劇や新派など新しい日本の演劇の一派が誕生し、日本の演劇はますます人々の心をつかむ存在となっていくのです。

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