明治時代に生まれた日本の演劇の新しい形、「新派演劇」とは?

画像c The New York Public Library, 2016

開国によって諸外国から多くの新しい文明や考え方が流入してきた明治時代、演劇の世界もにも大きな変革がありました。

今回は、明治時代の演劇、そして演劇の新しい形「新派演劇」についてご説明します。

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日本においての演劇は歌舞伎が中心だった

明治時代以前の日本の演劇は、出雲阿国をルーツとする歌舞伎が中心でした。

しかし明治時代になって西洋の演劇の知識が流入してくると、古めかしい歌舞伎を近代化し改良しようという動きが出てきました。

それまでの歌舞伎を、富裕層の人々や外国人が楽しめる内容に改良することを求めて「演劇改良会」というものが結成されたのです。

そこには伊藤博文や渋沢栄一そして井上馨などの大物政治家も参加していました。

別の見方をすると、今まで作り話だけであった歌舞伎の話を、作り物ではなく現実の世界を描く話にするようにと演劇改良員は歌舞伎の世界に求めたのですが、歌舞伎というものは狂言(現実でないもの)を描いてきた事が伝統だったために、改良員の要望と対立してしまいます。

新派演劇の誕生

しかし、9代目市川團十郎が明治政府の芝居に対する考え方に共感し、それまでの歌舞伎の価値観に反して現実に即した演劇をするようになりました。

そして徐々に市川團十郎の演劇志向も共感を呼ぶようになり、これが現在の歌舞伎の基盤となり、伝統的な歌舞伎は現代にも継承されています。

そしてこの頃、歌舞伎ではない新しい演劇として「新派演劇」が生まれます。

新派演劇とは歌舞伎とは全く異なる新たな現代劇で、この流れが現代のいわゆる劇場での演劇・芝居に繋がっていくのです。

その後20世紀になって、より芸術志向が強くなった新劇が始められて、西洋風の演劇思想に基づいた翻訳劇などの活動を行っていくようになりました。

明治時代終盤に初の女優が誕生

明治19年、鹿鳴館時代に成立した第一次伊藤内閣のもとで結成された演劇改良会では、歌舞伎の女形の廃止を提言しましたが、それでも舞台に女性が上がることはありませんでした。

しかしその後の女優の誕生は、自由民権運動に大きく関わりがありました。

明治21年には政府の保安条例によって、自由民権運動の志士たちが東京から追放されることとなり、追放された志士たちは政府を攻撃して民衆を啓蒙する手段として演劇を選びました。

芝居の内容については志士たちが素人であったためにお粗末なものではありましたが、川上音二郎という自由民権運動のリーダーが旗揚げした芝居は従来の素人芝居に比べて充実したものだったのです。

そしてその川上音二郎が、本格的に女優を演劇の中心に据える方向性を出して、「帝国女優養成所」を開きました。

そして川上音二郎の妻であった川上貞奴(元は芸者であったためこの名前)が、日本での女優第一号とされています。

川上音二郎と川上貞奴が尽力して創立した帝国女優養成所はその後、数々の財界人や政治家からの援助を受け、多くの女優を生み出しました。

そして大正3年には現在でも人気の高い「宝塚歌劇団」が創設されて、歌舞伎とは逆に女性が男性をも演じるという形態が誕生し、女優という存在がメジャーなものとなっていくのです。

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