© The New York Public Library, 2016
女学校と言えば良家の子女が通う乙女の園というイメージが強いですが、明治時代の女学校はどのようなものだったのでしょうか。
当初女学校は小学校を修了した女子を収容する場だった?
女学校という名称はすでに江戸時代の頃より存在していたとされていますが、実際に女子教育が本格的に始まったのは明治10年に入ってからだとされています。
江戸時代から明治初期にかけてはまだ、女学校という名称は女子中学教育機関を指すものではなく、小学校を修了しその先の教育機関に入学したいと希望する女子が増えてきたことから、明治4年に女学校の前身となる官立の女学校を東京に設置することになったとされています。
しかし、設置しては見たものの実際に女子のための教育機関をどう取り扱っていくかという方針を立てておらず、この官立東京女子学校は明治10年の2月廃校となります。
その後、明治7年に現在のお茶の水大学である東京女子師範学校、明治15年には日本で初の高等学校となる付属高等女子学校が創立されます。
ようやく女子教育についての方策を指示しましたがこれは男子学生の状況と比べるとかなり遅々とした状況であったとされています。
それだけ、女性が教育を受けるということについて明治政府に限らず日本全国においても非常にあいまいな定義しかなかったということが推測できるでしょう。
当時の女学生たちはどんな感じだった?
文明開化の影響により生活スタイルが西洋化してくるにつれて、普段の生活でも裾さばきが難しい着物から袴を着用する職業婦人が増え、街中でも袴姿の女性を多く見かけるようになります。
女学校においても机と椅子で授業を受けるスタイルに変化していきますが、明治初期の女学生たちは江戸時代の町娘と変わらない着物に草履、日本髪というスタイルだったようです。
その後文部省により女性教師や女学生の間でも袴の着用を許されるようになります。
しかし、男性の袴を女性が身に付けることを反対するものが多かったことから明治16年には一度禁止されるようになりますが、その後明治18年になると女学生のための服装という形で当時の華族女学院(現学習院)の校長であった下田歌子が行灯袴というスカート状の女袴をデザインし、それが女学生の制服として採用されるようになります。
髪形も、いわゆる江戸時代風の日本髪から一変し、三つ編みをベースにして束ねてリボンを飾った「マガレイト」というヘアスタイルが女学生に人気だったとされています。
「はいからさんが通る」のモデルとなった良家の子女が通う跡見女学校
少女漫画でも有名な大和和紀さんの名作、「ハイカラさんが通る」は、明治8年に開校された私立跡見学校、後の跡見学園がモデルとなっているとされています。
開校当初は、生徒は4~5歳、17~18歳の良家の子女が中心であり、お嬢様特有の挨拶である「ごきげんよう」の発祥の地だとも言われています。
明治39年に5年制の高等女学校令に従い変化していきましたが、跡見学校は女子教育に加えて婦人の伝統的教養を身に付けることを目標としたことから、和歌や書道、絵画、裁縫などに多くの配当時間を取っていたところが特徴的だったとされており、学校茶道が始まったのもこの学園からだとされています。
現在の学習院である華族女学校の生徒の袴が海老茶色であったことから「源氏物語」でお馴染みの紫式部にちなんで「海老茶式部」と呼ばれていたのに対し、跡見学校の袴は紫色であったことから百人一首にも出てくる赤染衛門にちなんで「紫衛門」と呼ばれていたようです。