© The New York Public Library, 2016
日本に住む上で国民の義務とも言えるべき税金ですが、国民の血税とも言えるその使い道が最近では非常に曖昧なことが問題視されています。
では明治時代においては税金はどのような制度だったのでしょうか。
地租改正によって米から現金へ
江戸時代はそれまでお米を年貢という形で納めていたのがいわゆる税でしたが、明治時代に突入するとそれまで村単位で収穫高の40~50%を物納していたのを、明治6年に安定した国家収入を得るために地租改正を行います。
これは、全国の土地に地価として値段をつけることでその3%の額(つまり地租)を、現金の形で納めるという制度です。
江戸時代までは50%なら50%分の米を年貢としてとして納めていればよかったのに、それを販売して現金化する必要が出てきたことから、場合によっては50%以上の米を売らなければならないことになります。
そして、実際には3.5~4%にも達したとされており、現金化できなければ借金するしかなかったのです。
お米で納めていた時代でも苦しかったのに、それを販売して現金にして納めよということと、3%という高い税率は農民の負担が非常に大きかったことから一揆が起こり、その後2.5%にまで下げられたとされています。
税金で納めるようになった理由とは?
では、なぜ江戸時代までは米で納めていたものを現金化して納めるように改正したのでしょうか。
その理由として、前述した通り明治政府の財政を安定させるための策略であったとされており、明治初期である約5000万円の国家の歳入の7割は地租だったとされているのが関係しています。
米での税収の場合、豊作や不作、あるいは凶作などによって米価自体の値段が変動してしまうと、米を収入としていた国家の財政も不安定になります。
しかし、土地に値段をつけることで豊作や凶作に関係なく一定の現金を得られるのですから、地租改正にかけていた明治政府の意気込みも分かることでしょう。
明治時代に導入された所得税は名誉税?
所得税はイギリスからは始まり、明治20年に日本においても導入されましたが世界でもその導入は早い方であったとされています。
所得税導入はすでに明治時代当初から検討されており、明治17年には大蔵省でイギリスの税制をもとにして源泉課税方式なども盛り込まれた所得税法草案が作成されていたようです。
しかし、所得税創設当初の明治20年頃は国税の1~2%程度の収入に過ぎなかったとされており、明治時代当時の所得税は年間所得金額が300円以上の人のみを対象としていました。
明治30年頃で警察官や教職の公務員の初任給が8~9円の時代ですから、年収300円以上の人は非常に少なく当時の納税者の人口は0.3%だったとされています。
そのため、所得税は別名「名誉税」とも呼ばれており、支払うことは非常に稀だったようです。
また、明治32年の改正においては、それまで個人のみに課税されていた所得税は法人にも課税されるようになったとされています。