明治時代の政治はイギリスやドイツを模倣したものだった?

明治時代k (13)© The New York Public Library, 2016

現在の日本の政治の基準は明治時代にできたものだとされています。

開国して様々な文化や思想、制度などが輸入され近代国家に向けての国づくりを始めていた明治時代の日本の政治はどのような経緯をたどって現在の形へと変化していったのでしょうか。

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明治時代に入って明治政府が行った大きな3つのこと

明治維新によって近代化を進めるにあたって明治政府が全国を支配するために行ったことは大きく分けて3つのことだとされています。

それは、明治4年の廃藩置県と明治6年の地租改正、そして明治22年の大日本帝国憲法制定です。

藩制度を廃止して代わりに県を置き、江戸時代まで米を税金の代わりに年貢として納めていたのを土地に値段をつけるようにして農民に地券を与え、その代わりに貨幣で税金を払うようにして、国の最高法規である憲法を制定して国の在り方や方針を決めていくようにしたのです。

順番的には、まず政府があってそのあと憲法が制定され、その憲法に基づきその他の様々な法律や制度が決められていきました。

そして、天皇という絶対権力を持つリーダーを中心に政治を行っていくという体制を作るために諸外国の文化や制度などを参考したり模倣することを始めていきます。

日本が立憲君主制にしたかった理由とは

明治維新直後の日本は、薩長による独裁政治が中心だったとされていましたが、日本が一人前の国家であることを欧米諸国に認識してもらい、それらの国による脅威や支配を退けるためには鎌倉時代以前のような天皇を中心とした政治を行うことを理想としたのです。

その理由としては、江戸時代まで行われていた武家政治を否定してそれよりも強いリーダーを立ててその人を中心に政治活動を行う方が近代国家への近道となるのではないかと考えたからと言えます。

実際に、明治維新が起こって明治時代に入っても、欧米諸国と比べても産業や工業、政治や教育などありとあらゆる分野で遅れをとっており薩長の独裁政治の下では遅々として進まなかったとされています。

明治政府ができるとイギリスやプロイセンのように憲法を制定し国会を開設し、数多くの制度や法律を作ったとされています。

また、選挙制度が誕生したおかげで、それまでは薩長の藩の人々や明治政府が中心となって行っていた政治活動に今日のような一般の国民が関わることができるようになったのです。

とはいうものの、今日のような男女平等の選挙制度が整うまでにはまだまだ時間がかかったとされています。

なぜ憲法制定においてだけドイツ(プロイセン)を模倣したの?

明治維新によって新しい時代への幕開けとなった日本は、近代化を目指すにあたって天皇を中心とした君主制による憲法に基づいた政治を行いたいと考えていました。

明治維新の立役者であり明治政府における中心人物であった大隈重信は、留学やお雇い外国人からの知識や文化などを学んだ結果イギリスの立憲君主制を理想と考えていたようです。

しかし、その当時のイギリスにおいては国王、つまり日本で言えば天皇はすでに実権はなく、天皇中心の国家体制が希望の日本にとっては模倣することができなかったのです。

一方で、イギリスの立憲君主制があまり素晴らしすぎて参考にならなかったという諸説もありますが、結果的に日本が参考にしたのはプロイセン、当時のドイツでした。

国の制度が出来上がって間もないプロイセンは、決して最先端の制度を採用しているわけではなかったのですが、小さな国でありながら欧米諸国と肩を並べても引けを取らないその国の姿に感銘を受けたことと、日本の国情が当時のプロイセンのそれと似ていたことから参考にしやすかったとされています。

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