明治時代の恋愛には自由がなかった?女、三界に家なし?

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© The New York Public Library, 2016

最近では、結婚相談所で出会って結婚するカップルも珍しくなくなってきましたが、それでも恋愛を経てから結婚するカップルが大多数です。

では、明治時代の恋愛はどのようなものだったのか、どのような形で結婚していたのでしょうか。

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女性は財産?明治時代はお見合い結婚が当たり前

明治時代に入ると、西洋から入ってきた文化として日本人は初めて「恋愛」というものに触れる機会を得ます。

しかし、当時の男性の恋といえば、江戸時代から続いている風習として吉原の女性や女優の卵、踊りの師匠などいわばそれなりのテクニックを持った玄人相手にホレたハレたを繰り返すのが男の粋な遊び方であり、現在で言うところの恋愛とは全く別物だったと言われています。

そして、散々遊んだあとでしかるべき家柄の女性と結婚するのが一般的であり、明治時代はまだ不倫などに対する道徳もそれほど咎められる時代ではなかったために、結婚後も愛人を作り遊び倒すのが男性の甲斐性ともされていました。

一方、中流階級以上の女性は自分の意思と関係なく親が結婚を決めるのが当たり前の時代であり、女性は財産と見なされ、交換や贈与の対象であったと言われています。

中級以下の階級である下々の人たちの方が、恋愛というと少し異なりますが気の合ったもの同士でつがいとなり、農作業の労働力となる子供を早く生んで生活に役立てるという考え方が当たり前だったようです。

恋愛観は文化人が広めていった?

江戸時代の色道を引きずってその場限りの色恋を繰り返してきた当時、それを改めるように説いたのがその当時の文化人だったとされています。

「恋愛至上主義」で有名な北村透谷は、自由民権運動などからキリスト教の影響を受けて恋愛がいかに重要でその後人生を大きく変えるものかということを強く説き、その当時不真面目に色恋をただ惰性で繰り返してきた青年たちに、真面目に剛速球の恋愛をしろと求めたのですから、非常に大きな影響を与えたとされています。

一方、女性たちにとってもその恋愛観は理想的な考え方であったとされています。

男性からだけでなく親からも財産や贈与の対象として、意思を持たないモノ扱いをされてきた女性たちにとって、美しい言葉で自身を賛美して自分の魅力を褒め称えて崇めてくれることがどんなに気分が良く、自分の性的商品の価値を高めてくれるまさに好都合だったと言えます。

明治時代を代表する恋愛小説と言えば尾崎紅葉の「金色夜叉」、悲恋ものである徳富蘆花の「不如帰」などですが、恋愛至上主義に憧れる一方でやはり親の持ち物であるという概念は変わることはなく結果的に泣く泣く顔の知らない相手に嫁ぐというのが良家の子女の末路とされていました。

明治時代にも「ロミオとジュリエット」が存在した?

ロミオとジュリエットと言えば、親が敵同士の恋人たちが恋愛を繰り広げる恋愛劇の古典ともいえる作品ですが、実は明治時代にもロミオとジュリエットが存在したことをご存知でしょうか。

NHKの「八重の桜」をご覧になっていた人はご存知かもしれませんが、ロミオ役は薩摩藩出身で西郷隆盛の従兄弟であった大山巌、そしてジュリエット役は代々会津藩の家老であった家柄のお嬢様であった山川捨松です。

そもそもの出会いは先妻を亡くした大山が、海外留学の経験を持つ捨松とのお見合いをすることになったことがきっかけでしたが、パリのマドモアゼルを彷彿とさせる捨松の身のこなしにすっかり虜になってしまいます。

しかし、捨松の親は故郷の敵である薩摩藩出身の大山との結婚に大反対でしたがそれでもあきらめることができない大山は必死にアプローチと説得を重ねて、最終的に「本人が納得すればよい」というところまで話をこぎつけ、留学から帰国したばかりで日本語に不慣れな捨松に対して英語で対応するなどの大山の優しい心意気にひかれて親子ほど年の差のあった男女は互いに想い合うようになり、まだ当時完成したばかりの鹿鳴館で盛大な結婚披露宴を催し、多くの招待客に祝福されながら結ばれていきます。

ロミオとジュリエットは最後お互いに死んでしまうという悲恋で終わりますが、この大山巌と捨松は年を重ねても仲睦まじく過ごしたと言われています。

恋愛の末に結婚に至り、その後もオシドリ夫婦として有名だった大山と捨松でしたが、その当時には奇異の存在であったとしても時代の最先端を行く関係であったとも言えるでしょう。

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