明治の激動で大躍進した街、横浜の歴史について

画像c The New York Public Library, 2016

明治時代に入って目覚ましい発展を遂げた町、横浜。

今回はこの横浜の歴史を、明治時代を中心にご紹介していきます。

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かつては農漁村だった町、横浜

幕末に開港された横浜港を中心に、明治以降の横浜は目覚ましい発展を遂げました。

江戸時代、現在の横浜市域の大部分は幕府直轄または旗本知行地となっていて、2国4郡・215の村からなっていました。

安政元年(1854年)アメリカ海軍提督のペリーが黒船を率いて日本へ来航、横浜村で会談が行われて日米和親条約が締結されました。

当時の横浜村は、東海道筋の神奈川港からも離れていて、80軒ほどの漁師小屋が立ち並ぶ、半農半漁の寒村でした。

その後政府の意向で横浜村に港が建設され(横浜港)、元町と居留地の間に堀川が作られました。

なぜ寒村だった横浜に港が作られたのか、それは外国人と日本人の住民が直接交流するのを防ぐために、寒村だった横浜村が選ばれたとされています。

明治以降、急速に発展していく横浜

横浜港ができたことで、まずインフラ面が急速に発展し、港を中心に埋め立て工事が積極的に行われて町の規模が拡大しました。

また、明治5年には埋め立て地に東海道線の横浜駅(現在の桜木町駅)も開通、港には波止場に加えて鉄桟橋や新港埠頭も作られて大型船も接岸できるようになりました。

生糸の貿易が盛んに行われるようになり、生糸貿易で名をはせた茂木惣兵衛や横浜・三渓園でも知られている原善三郎らが財を成します。

また、外国からキリスト教や医学などの文明が流入したことで、横浜は日本の新しい文化の窓口となったのです。

更にライフラインである水道・ガス灯・電灯なども、明治時代に横浜に初めて設置されたもので、明治3年には国内初の新聞が発行されたのも横浜でした。

横浜に現存する明治時代の建物

明治以降急速に発展した横浜には、当時の最新技術によって建てられた建造物が多数存在します。

明治4年に竣工された、日本初の全鉄筋コンクリートの横浜三井物産ビル(現在ではKN日本大通ビル)をはじめ、明治37年築の神奈川県立歴史館、明治44年築の横浜赤レンガ倉庫、明治43年築の外交官の家など数多くの建物が現存しており、国の重要文化財に指定されているものも少なくありません。

また、北仲通北地区には、かつて養蚕倉庫と呼ばれる倉庫があります。

明治維新後、日本の上質な生糸はアメリカやイギリスに輸出され、全国で作られた生糸がここに集められて、検査後に船に積み込まれました。

現在ではリノベーション後の建物となっていますが、横浜の歴史を伝える貴重な建物となっています。

横浜港開港以来、発展をとげてきた横浜は、関東大震災そして太平洋戦争の横浜大空襲によって大きな被害を受けてしまいました。

しかしその後も、東京とは一味違うモダンな街「ヨコハマ」は世界的にも有名な都市として、現在でも多くの観光客が訪れています。

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