明治時代は離婚制度が軽かった?離婚率はどのくらい?

明治時代k (26)© The New York Public Library, 2016

性格の不一致やDV、あるいは経済観念の違いなど今や日本では3組に1組のカップルが離婚していると言う一方で、一生独身でも構わないと考えている独身者もいれば経済的に結婚は無理と最初から諦めている人まで様々です。

では、明治時代の離婚制度や離婚率はどのくらいのものだったのでしょうか。

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離婚するのに理由がいらないことが離婚率を上昇させた?

玄関で三つ指ついて夫の帰りを迎える、という亭主関白の時代があったのは実は明治時代よりもずっと後の時代のことであり、明治時代の初期は特に現代よりもずっと離婚率が多かったとされています。

一説によると明治初期の男女の離婚率は全体の4%、高度経済成長期の3倍、2011年の1.5倍という高さだったようです。

江戸時代を引き継いで一夫多妻制が一般的であったために男性は気にらなければすぐに妻に離婚を申し渡しており、江戸時代においては「離縁は7回目まで」という離婚制度まであったとされています。

そして、現在ではお互いの合意がない限りそれなりの理由がないと離婚できないとされていますが、明治時代は「奥さんと相性が合わない」とか「姑が嫁を気に入らない」という理由から夫の親が嫁を追い出すことで一方的に離婚をするのも可能だったとされています。

つまり、離婚理由なんてどんなものでもよかったというわけです。

子供に関しては現在は女性がシングルマザーとなって引き取る場合が多いものの、明治時代は子供は夫側に引き取られるのが一般的でした。

その理由としては、「子供はその嫁が家に入って産んだもの」という認識が強かったために、妻が子供を引き取る養育権というものは存在しなかったのでしょう。

女性は一方的な離婚にすんなり納得したの?

明治時代の初期は、一人の人と一生を添い遂げると言う観念はまだ根付いておらず、離婚することに抵抗がなかったのも離婚率が高かった原因の一つと言えるでしょう。

そもそも結婚するまで処女を貫くというキリスト的な考えが入ってきたばかりの明治初期においては、結婚においてその思想が反映されるのにも時間がかかったのはないかと思われます。

明治時代の女性は一人で自活していく能力があり、夫に離婚を言い渡されてもすんなり受け入れ、むしろ離婚したいがためにわざと不貞を働く妻もいたとされています。

また、離婚においても女性側は離縁状がないと再婚できなかったためにかなりの発言力があったとされていたようですが、明治中期になって民法の改正が行われ簡単に離婚できないような離婚制度ができ、加えて男尊女卑の考え方が強制されるようになると、徐々に女性の発言力が脅かされるようになり、離婚率も半減するようになっていきます。

女性は貞操観念を持ち良妻賢母であることが理想とされ、それ以前までは夫婦別姓だったのが同性になったことで結婚に対する意識も大きく変わっていったとされています。

明治時代後半は事実婚がブームだった?

民法により離婚制度が厳しく敷かれたことによって離婚率が下がったものの、今度はその面倒さから逃避するために婚姻率自体が下がってしまうようになるのが明治時代の後期です。

離婚制度によって離婚が簡単にしづらくなったことから、「内縁関係」や「事実婚」のまま籍を入れない男女が増えるようになり、明治30年代には20%以上の男女が事実婚だったとされています。

結婚したら離婚制度によって様々な手続きを踏んだ上で離婚しなければならないから結婚しないというのは、現代の考えと異なっているようで類似するところもあるのではないでしょうか。

それまで、労働力として重宝されていた女性は文明開化や技術の発展によって工業化が進んだことでますます仕事を失い、「結婚したら男は働き、女は家を守る」という考えも徐々に定着し始めることで離婚率はさらに低減していったとされています。

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