明治時代にキリスト教はどの程度布教された?影響は?

画像c The New York Public Library, 2016

宗教と国やときの権力者らとは、昔から難しい関わりを続けています。

最近では、元首相の安倍晋三氏が街頭演説中に襲撃されなくなった事件をきっかけに、政治家と宗教団体との関わりに世間の注目が集まっています。

欧米ではメジャーな「キリスト教」も、ザビエルによって織田信長の時代に伝来したものの、ときの権力者によって布教が禁じられるなど、歓迎と迫害の両面が歴史のなかにみられます。

ここでは、明治時代を中心としたキリスト教の状況について考察してみます。

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明治時代前に伝来し、禁教令まで発せられたキリスト教

キリスト教は、明治時代のはるか前、織田信長らが権力を争っていた時代の1549年にザビエルによって日本に初めて伝えられています。

当時の日本にはない異国の新しい武器を欲する織田信長らは、ザビエルらに同行する武器商人らとの接触を望み、キリスト教も歓迎されています。

その後、天下統一を果たした豊臣秀吉の時代になり、一転キリスト教は迫害され、徳川家康によって「キリシタン禁止令」が1612年に発布されます。

明治時代を迎える大政奉還によっても、新政府は江戸幕府の禁教令を継承され、発見された多数のキリシタンは拷問にかけられ、棄教を求められています。

しかしながら、キリスト教の布教活動は、明治政府の開国政策への転換により、状況がまたしても転換します。

明治時代に派遣の岩倉使節団に課されたキリスト教の解禁?

キリスト教に対する迫害は、幕末のペリー来航によって庶民のキリシタン化を恐れる明治時代の新政府によって、より強化されます。

五榜の掲示による禁教で、キリスト教信徒への拷問や流刑などが行われ、新政府はカトリックだけでなく、全国的に弾圧を強くしています。

ところが、欧米諸国に向かった岩倉視察団が、不平等条約の改正を交渉した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件として提示されます。

これを受け、明治6年(1873年)にキリスト教禁止令が解かれ、それまでのいろいろな制約がなくなり、布教活動はもちろん教育や社会福祉事業に広がりをみせています。

上智大学をはじめ、今日ある「〇〇学院」や「〇〇女学院」といった名称をもつミッションスクールの多くは、禁止令が解かれたこの頃に創立されています。

明治時代に転換されたキリスト教の扱い

ザビエルによって伝えられたキリスト教は、織田信長ら新興の戦国大名らには歓迎されたものの、豊臣秀吉の時代以降長らく迫害の歴史だといえそうです。

幕末のペリー来航によって鎖国を解いた日本でしたが、明治時代の初めはキリスト教に対する弾圧は継続されています。

不平等条約の改正を求めた岩倉使節団に欧米諸国がキリスト教の解禁を求めたことで、禁止令が解かれ、本格的な布教活動やさまざまな影響が広がっています。

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