明治時代に留学した人たちは帰国後数奇な運命をたどった?

明治時代k (6)© The New York Public Library, 2016

現在は海外留学をする人は珍しい時代ではなく、高校生や大学生の間に短い期間でホームスティする人も多くいるとされています。

明治時代においては、留学とはどのようなものだったのでしょうか。

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明治時代に留学した人はエリートやお金持ちがほとんどだった?

明治時代に入ると、日本は近代国家を目指すために「富国強兵」や「殖産興業」を目指し欧米諸国の文化や思想を吸収しまた参考にしながら文明開化を進めていきますが、その中でも外国留学も国策の一つだとされ、数多くの知識人やエリートたちが外国留学へと旅立っていったとされています。

それだけに限らず、外国の優れた制度を日本にも輸入することや国際的な人脈形成のため、さらに世界に通用する優秀な人材の育成を目的として官費留学が制度化されるようになります。

その一方で、明治時代当初は日本は非常に貧しかったことから海外へ留学するだけの費用を捻出できるような金持ちやエリートでなければ留学できなかったとされています。

あるいは、国が認めるくらいの優秀な人材でなければ留学は難しかったのでないかと推測できますが、なかなか留学できないからこそ留学をした人たちはがむしゃらに海外での留学の経験を明治時代の日本の近代化のために活かしたのではないでしょうか。

幼くして留学した津田梅子の数奇な運命

明治時代の留学先としてはアメリカやイギリス、ドイツなどが多かったとされていますがエリートや優秀な人材、お金持ちだけが留学したのかというと少し異なります。

まだ10代にも満たない5人の少女たちも、欧米諸国と肩を並べるためには女性の地位や学力の向上が不可欠だという考えから岩倉具視率いる岩倉使節団の一員として留学したとされているのです。

5人の少女たちは6~16歳の幼い少女ばかりでその中には後に女子教育の先駆者であり津田塾大学の創始者でもある津田梅子も含まれていたとされており、留学当初は最年少の6歳であったとされています。

明治時代当時は現在のように飛行機もないわけで、船で何日もかけていったのですから精神的にも肉体的にも相当の負担になったことだろうと思われ、留学したうちの一人の少女はホームシックと眼病を患ったために1年後には帰国していますが津田梅子は12年間も海外に滞在し18歳になってからようやく帰国します。

幼少期を海外で過ごした梅子は日本語を忘れており、帰国しても家族と会話することさえままならず、また明治政府は大金をはたいて日本初の女性の留学を行ったにもかかわらず帰国した彼女たちのポストを作っていなかったためにもてあましてしまいます。

そんな中、留学当初の幼い彼女を覚えていた伊藤博文の紹介で現在の学習院大学である華族女学校で英語教師として教鞭をとることになります。

しかし、日本の封建的風土や上流社会の世界に溶け込むことができず再び渡米し、また日本の結婚観が理解できなかったことから生涯独身を貫いたとされています。

奴隷として売られていた?高橋是清

明治時代当時、留学したすべての人が海外で受け入れられもてはやされたのかというと少し話が違います。

江戸時代、仙台藩士であった是清は藩の留学生として渡米しますが、手違いがあってアメリカで奴隷契約書にサインをさせられて牧童やブドウ園の奴隷として1年間働かされたのです。

ただ、その話も少し異なっており実際に本当に奴隷として強いられたというよりブドウの収穫の時期に人手が足りないために駆り出されて1年間派遣として働いたようなもので、季節労働者のようなものだったとされているのです。

明治元年には帰国し、その後は明治44年に日本銀行の総裁に就任した後総理大臣を1回、大蔵大臣を7回ほど経験し昭和11年の2・26事件で銃弾に倒れその生涯を閉じています。

明治時代に留学した人は様々な経験をした分、その後の運命も非常に数奇なものだったのかもしれません。

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