画像c The New York Public Library, 2016
いつの時代も、さまざまな場面に差別や偏見が存在し、当事者が声をあげても簡単に改善されることは稀です。
北海道や東北地方を中心に居住していた先住民族のアイヌは、江戸時代から明治時代へと時代が変わるなか、自らの知らぬところで運命を翻弄されています。
しかも、アイヌの住民らは、日本とロシアの国境線を跨いで居住していたため、両国の一方的な決定にも翻弄され、文化の存亡の危機も迎えています。
時代が大きく変わった明治時代に翻弄されたアイヌの状況を考えてみます。
明治時代にアイヌの住民らを困惑させた千島樺太交換条約
北海道やサハリンなどで狩猟や漁を生活の糧とした暮らしを送っていたアイヌの先住民らは、明治政府とロシアが明治8年に締結した「千島樺太交換条約」によって、居住する場所から困惑させられています。
この条約により、日本とロシアの国境線が明確化され、樺太南部と千島列島に住んでいたアイヌの人々の帰属と移住が一方的に決められています。
具体的には、樺太と千島に暮らすアイヌの住民らは、3年以内にロシアか日本のいずれかの国籍を選択し、現住所と選択した国籍が違う場合には、故郷を捨てて移住しなければならないというモノです。
いずれの選択も、先住民族として暮らしてきたアイヌの人々は、慣れ親しんだ故郷、あるいは、それまでの生活様式そのものを変えなければならなかったのです。
近代国家政策を進める明治時代の新政府は、一般民衆にもさまざまな変化と適応を求めていますが、アイヌの住民らが求められた変化は相当大きなものだったのです。
明治時代に施行された北海道旧土人保護法のアイヌへの影響
明治時代の新政府は、千島樺太交換条約が締結される四年前の明治4年に、アイヌに対し「北海道旧土人保護法」によって、先住民の所有する土地を奪っています。
アイヌに対して土地を分配するにも、農業の従事、長期間の未開墾での没収、相続以外の譲渡禁止など、日本の庶民とは明らかに違う条件が課されています。
保護という法律の名とは違い、アイヌに対して和人式の姓名を付けるように強要し、耳輪や刺青などの先住民特有の習俗も禁止しています。
しかも、アイヌの文化や生活を否定し、日本語と修身教育を推進した明治時代のアイヌ学校には、アイヌを日本本土の庶民と同化しようとする皇民化教育でした。
明治時代に翻弄された北海道や東北のアイヌ民族
明治時代となり、急速に近代化を目指す新政府の改革は、多くの庶民の不平や不満が一揆などの反発もありました。
そんな改革の極端な影響が、ロシアにも翻弄されたアイヌ民族の処遇にみてとれます。
居住地あるいは生活のいずれかを失う決断を求められ、自らが引き継ぐ文化も否定され、日本人固有の観念を押しきせたともいえる「北海道旧土人保護法」が平成9年に廃止された結末にも現れています。
この間、アイヌに対するさまざまな差別や偏見が横行したのは、容易に想像できそうです。