c The New York Public Library
最近では新聞を読む人は非常に少なくなってきていますが、明治時代の新聞はどのように発展していったのでしょうか。
新聞はもともと娯楽情報を掲載するものだった?
ネットがない時代、さらにはテレビやラジオなどもまだなかった時代において、新聞は唯一社会の動きや世間を知ることが出来るメディアだったとされています。
では、明治時代においてはどのような媒体だったのでしょうか。
すでに江戸時代から新聞はあったとされていますが、明治時代になると中外新聞が発行されます。
この新聞を作っていたのが旧江戸幕府に使えていた洋学者であったことから、海外と日本の両方の経済事情や社会事情を知ることが出来たために非常に人気があったようです。
明治3年になると横浜毎日新聞が発刊されるようになり、それまでも木版だったのか活版印刷へと移行し、部数を増やすことが可能になります。
日清・日露戦争がきっかけ?新聞がニュースを伝える媒体となった理由
そもそも新聞は世界情勢を知るニュース的な媒体というよりも、政治論説を紹介したり娯楽情報を知る媒体でもあるのが中心だったとされています。
また、新聞の大きさが異なったことから、政治的な論説を紹介する新聞を大新聞、娯楽情報中心の新聞を小新聞と呼んでいたそうです。
新聞が、今日のようなニュースを知るための紙媒体となったのは日清・日露戦争がきっかけとされています。
戦線がどうなのかその状況を一般庶民が知ることのできる唯一の媒体が新聞であったため、そのおかげもあって新聞は発行部数を伸ばしていくことにもつながったようです。
新聞で女性の水着の色を制限?
娯楽情報が中心の小新聞には、海水浴の情報を掲載する新聞もあったようです。
明治時代において海水浴をする人が徐々に増えてくるようになると、海水浴の記事が新聞に載るようになり最も古い記述は明治13年頃であるとされています。
その内容としては、大阪の裁判所所長が避暑地に出かけ海水浴を楽しんだ、という記事が掲載されていたようです。
その後、さらに海水浴をする人口が増えるようになると、「年々盛んになってきたがここは穴場だよ」的な記事も載るようになります。
もちろん、今でもそういった記事は新聞にはたくさん書かれていますが、明治時代当時は自由な発想で書かれていたのかもしれません。
さらに海水浴客が増え、大正時代になると新聞に不思議な記事が載るようになります。
それは、女性の水着の色を制限する記事で、「女性は黒や茶色などを着るべきであり、肉感的に映る白は着用しないように」と禁止する記事でした。
また、その時代は東京のプールでも男女別に入っていたこともあったようで、新聞に触れることで、当時の様々な背景も浮かび上がってきそうですね。