ペリー総督もびっくり?明治時代以前のお風呂は混浴だった?

c The New York Public Library

今でさえほとんどの家にお風呂が存在し、逆に銭湯などは少なくなってきている現代ですが、明治時代以前、そして明治時代は庶民は銭湯に行くのが一般的でした。

そして、信じられないことに男女混浴が当たり前だったのですが、それを厳しく取り締まるようになったのが明治時代とされているのです。

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ペリーはが驚いた日本の風呂事情

明治時代以前、江戸時代においては銭湯や風呂は庶民の憩いの場とされていました。

今のように洗い場と湯船が一体となっているのではなく、1階と2階に分かれており湯女という女性がお客の背中を流して洗ってくれることもあれば、2階ではその湯女が三味線などを用いて遊客をもてなすこともあったとされており、時には性的サービスを行うこともありました。

この江戸時代の風呂事情に眉をしかめた有名人がいます。

それは、黒船でやってきたペリー総督です。

ペリー総督は突然呼ばれもしないのに黒船に乗って日本にやってきて日本国民を騒然とさせましたが、結果的にそれが日本を近代国家へと導く引き金となったことも確かです。

ただ、このペリー総督も日本もお風呂事情には逆に驚かされたようなのです。

下田の大衆浴場で混浴の様子を見たペリー総督は、のちに「日本遠征記」で「道徳心に優れている日本人がなぜ混浴をしているのか、道徳心を疑ってしまう」などと記しており、非常に衝撃的な出来事だったことを物語っています。

それでもなかなかなくならなかった混浴

江戸時代からの習慣をなくそうとしても、そんなに簡単になくなるものではないのが男女混浴でした。

もちろん、江戸時代においても水野忠邦が「混浴禁止令」を出し取り締まろうとしますがなかなかなくならず、明治時代に入ってもしばらく続いていたとされています。

そして、明治時代に入って今度こそ本気で取り締まることを決意し、それまで柘榴口という湯気が逃げないようにする部分を完全になくして名前も新たに「改良風呂」というものを作っていきます。

その理由としては、柘榴口はそもそもは湯気を逃がさないようにするための入り口だったのですが、それを利用して風紀を乱す輩も多かったことからそれを取り締まることも目的として柘榴口をなくし現在の銭湯の形へと変化させていったとされています。

ただ、混浴を禁止して柘榴口を撤廃したところで、完全に風紀を正すことは難しいものです。

実際に混浴が完全に廃止されたのは明治中期になった頃で、混浴のままにしておけばその分お客が舞い込むことが分かっていた風呂屋の主人は、のらりくらりと政府の目を盗み混浴を続けるところも多かったのではないでしょうか。

裸禁止令により悲しい事件もあった明治時代

明治時代に入ると、今までの日本では信じられない様々な制度が制定されるようになりますが、その中でも信じられないのが「裸禁止令」という制度でした。

明治時代以前、江戸時代までは庶民は肌を露出して過ごすことに何の抵抗もありませんでした。

上半身を露出して働く男性はもちろん、女性が人前で乳房をさらし子供に乳をあげるのは日常茶飯事であり、行ってみれば江戸の世は「裸の楽園」であったとされています。

しかし、明治時代に入り西洋人から「肌を人前で露出するなんて野蛮人だ」と思われ文明国だと思ってもらえないのではと恐れた明治政府は、「裸禁止令」を出し肌を露出することを厳しく取り締まるようになるのです。

この裸禁止令により、それまで男女混浴であった銭湯も男女別になり、女湯をのぞくような行為はもちろん禁止します。

庶民にしては、それまで自分たちの裸をさらすことに何の文句も言われなかったのに、急に禁止され裸を取り締まられるようになるなんてたまったもんじゃありません。

そのため、納得がいかない庶民たちは一揆などを起こした際にも「裸に自由を!」的なスローガンを掲げていたこともあったようです。

これだけ庶民が抵抗するのですから、それを取り締まる政府側も必死であり、中には風呂屋から突然裸体で飛び出した少年を警官が追いかけて暴行し、殴り殺してしまうような極端な事件もあったとされています。

現在も、人前で裸になることは厳しく取り締まられており「わいせつ物陳列罪」などの罪状がつくこともありますが、悲劇があったものの明治時代に厳しく取り締まったことが結果的に日本にとって良かったことだったのではないでしょうか。

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