明治時代は文学においても西洋文化の影響を受けた?

明治時代k (24)© The New York Public Library, 2016

明治時代には今でも日本を代表とする数多くの文学が誕生し、また文明開化の影響により西洋の文化を取り込んで文学の世界においても様々なジャンルの作品が生まれた時代でもあったとされています。

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様々なジャンルの小説が存在していた明治時代

明治初期の頃は、江戸時代と同様に戯作文学などの読み物が好んで読まれ、その後自由民権運動が盛んとなる中で福沢諭吉や中江兆民など政治に対する考え方や思想を盛り込んだ政治小説も誕生するとされています。

一方で、坪内逍遥などは政治や勧善懲悪を題材とする小説ばかりではなく人間の心の内面を描くような作品を書くべきと小説神髄の中で主張したりそれの影響によって二葉亭四迷は写実主義の文学理論について「小説総論」などにまとめたとされています。

また、それまでは昔ながらの文体で書かれていた小説を話し言葉で記そうという言文一致体の動きを取り入れた小説である「浮雲」を発表し、次第に言文一致体が小説の世界においても一般化するようになります。

森鴎外と夏目漱石は同じ借家を借りていた?

明治時代を代表する文学と言えば森鴎外や夏目漱石などが有名ですが、実はこの二人は時期は違うものの同じ借家に住んでいたとされていることをご存知でしょうか。

現在の東京都文京区千駄木に、明治20年頃に建てられた純和式の家に、ドイツ留学から帰国した森鴎外は明治23年ごろ借家として借りた後、明治36~39年までは夏目漱石が住み、猫の目線から人間社会の滑稽さを描いた「吾輩は猫である」を執筆しています。

明治時代当初は普通の都市住宅であったのですが、明治時代を代表とする文学家が二人も住んでいる家とは非常に貴重と言えます。

その家は、現在は千駄木には存在していませんが、愛知県犬山市の明治村というところに移築されているそうです。

若くして才能が開花した女性作家の数奇な運命

5千円札で有名な樋口一葉も、明治時代を代表とする数々の文学を世に出した人物の一人だとされています。

一葉は幼いころから和歌や詩歌の勉強に励み10代にしてその文才を認められますが一葉が17歳になった頃実の父が亡くなり、多額の借金を残していたことがわかるとそれが幼い一様に肩にのしかかってきます。

一般的に文学を書くというのは書きたくてどうしようもない衝動から生まれるものではありますが一葉の場合は全く異なり実は小説を書き始めたのは借金が原因であったとされているのです。

明治26年には名作「たけくらべ」の舞台となった下谷・竜泉寺町に移り住み、荒物屋と言われる日用品や雑貨などを売るお店を開業しますが借金のやりくりに追われて翌年にはお店たたみ、ますます困窮していきます。

困窮した一家は様々な人に援助を求めつつも一葉自身も「たけくらべ」をはじめとする数多くの傑作を生みだしますが、当時不治の病でもあった肺結核を病み、明治29年に24歳と半年という若さでこの世を去ることになります。

一葉の葬儀を行うにも家族自体が困窮していたために十分に他人に来てもらうだけの営みができなかったことからわざわざ陸軍軍医の制服で弔問に訪れた森鴎外も断られたとされており、一葉の葬儀は明治時代を代表する上流作家の葬儀とは思えないほど質素な葬儀だったとされています。

後の世の文学にも影響を与え数多くの作品を書き活躍したからと言って、すべての文豪家たちが優雅に過ごしたわけではないのが明治時代だったのかもしれません。

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