明治時代は和洋折衷が当たり前ってホント?

c The New York Public Library

明治時代と言えば西洋文化が数多く入ってきた転換期でもありますが、特徴としては西洋の文化と日本の文化が合わさった和洋折衷なのが一般的とされていました。

では、それはどのようなものだったのか考えてみましょう。

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時代の最先端を取り入れるのはやっぱり若い女性?

明治維新から数多くの西洋文化が入ってきて、それをいち早く上手に取り入れたのは女学生だったとされています。

それまで着物や袴を着ていた文化から、少しでも西洋の文化を取り入れたいと流行に飛びつき生まれたスタイルが、現代の大学の卒業式などでよく見かけることのある「袴に編み上げブーツ」「着物にショール」といった和洋折衷スタイルです。

今まで来ていた着物を脱ぎ棄てていきなり洋服を着るのにはだれでも抵抗があるものですが、流行に敏感な女学生たちは自分らしいスタイルを作るために日本のものと西洋のものをうまく組み合わせて独自のスタイルを作り上げたのです。

どの時代においても、流行を作ってきたのは大人ではなく時代の流れに敏感な若い女性たちだったのかもしれません。

花嫁衣装が激変?和洋折衷がもたらした日本の婚礼衣装とは?

最近の花嫁衣装と言ったらウェディングドレスを着る女性が多いようですが、お色直しをして白無垢を着た後にドレスに着替えるなんて人もいるようですね。

日本における花嫁衣装と言えば白無垢ですが、その様な衣装になったのは室町時代後半からとされており角隠しに至っては江戸時代後期から取り入れた風習の一つとされています。

しかし、日本の伝統的な婚礼衣装が激変したのが明治時代です。

西洋から洋装文化が入ってきたことから衣装や風習においても変化が始まります。

明治時代当初は、結婚式は日本の古来からの風習が根強く残り新郎の自宅で披露宴を兼ねた祝言が執り行われ、神前式が一般的だったためウェディングドレスを取り入れる場がなかったとされています。

明治時代も後半に入ると、西洋文化の洋装の影響からか明治33年から明治43年にかけては婚礼用の着物にブーケを持って花嫁のベールを頭からかけている和洋折衷の写真が増え、新郎のいでたちも和装から完全に洋装になるなどの変化があったとされています。

もちろん西洋文化の影響もありますが、ここまで和洋折衷になったりそれまでの風習からがらりと変わっていったのは、新郎の自宅で細々と行ってきた婚礼が公の場や大きなホールなどで行われるようになったことで、またそこで様々な文化が取り入れられた影響もあるようです。

和洋折衷の代表格、アンパンや牛鍋

今や当たり前にスーパーで売られているアンパンも、実は明治時代に西洋の文化を受けたこと出来上がった和洋折衷の食べ物の一つです。

そもそもパンは江戸時代には入ってきていたものの、その当時のパンはぱさぱさで硬くあまり味気のないものだったために人気がありませんでした。

明時代に入りバターやミルクなど様々な食材が使用されるようになると、以前に比べて食べやすくなったことから明治時代の日本にパンブームが起こります。

そこに目を付けたのが木村屋の創業者である木村安兵衛です。

彼は、日本の伝統的な材料であるあんことパンを組み合わせてアンパンを作りこれが大うけして大人気を博すようになります。

また、庶民の間でも比較的流行したのが、甘辛い味付けが特徴の牛鍋であり、今で言うところのすき焼きのようなものだったとされています。

あまり肉類を食べなれていない日本人にとって、ただ塩と胡椒だけで味付けをしたステーキのような肉は受け付けなかったものの、砂糖や醤油、味噌などを使って日本人好みに味付けをした牛鍋は瞬く間に庶民の間でも広まり一般的に食べられるようになったとされています。

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