明治時代における写真機と写真技術はどんなものだった?

明治時代k (17)© The New York Public Library, 2016

幕末から明治時代に入って数多くの写真が残されており、写真は現代の私たちが明治時代の人々を知る上での重要な手掛かりとなっています。

明治時代の写真機や写真技術はどのようなものだったのでしょうか。

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明治時代に写真機や写真技術が進んだのは上野彦馬によるもの

写真機や写真技術はすでに幕末の頃に諸外国から輸入されてきており、徳川の最後の将軍であった徳川慶喜も写真を非常に好んだとされ本人を写した写真は学校の教科書などでも見たことがある人は多いのではないかと思われます。

明治時代において日本の写真機や写真技術が進んだのは上野彦馬という人物の手柄が大きいとされています。

蘭学者の次男坊として生まれた彦馬は、スイス人のカメラマンであるピエール・ロシエから写真機や基礎的な写真技術を学び、すでに日本に入ってきたダケレオタイプではなく最新式の湿式写真技術を独学で学ぶと明治維新の立役者でもあった高杉晋作や坂本龍馬の写真を撮影していきます。

それまでのダケレオタイプとの違いは露出時間の違いだとされています。

ダケレオタイプは露出に2分間もかかったためにその間に撮影している人物が動いてしまうと像が乱れてしまうことから撮影される側が2分間も微動だにすることができず、幕末や明治初期にかけての写真の多くは仏頂面になっている写真が多いとも言われています。

湿式写真の写真機の露出時間は20~30秒で済んだことから、新しい物好きでも有名だった坂本龍馬などは何度も写真撮影を行った上に1枚1万円もかかる焼き増しを何枚も行ってその写真を名刺代わりに配っていたとされています。

手を隠さないと魂を取られる?謎の都市伝説の真相とは

明治時代に入って初めて写真機や写真技術に触れた当時の人々にとって、「キリシタン・バテレンの魔術」や「魂が吸い取られる」などの風評がたっていたとされています。

明治時代の人々を撮影した写真の中で、女性の多くは着物の裾で手を隠している写真が多いとされていますがこれは「手が写真に写ると魂がとられる」という迷信によるものだったとされており、実際に明治時代の人々の肖像写真の多くは実際に手を隠して撮られている人が多いようです。

その他の理由としては、明治時代当時は写真機で写真を撮ることは外国人や一部の金持ちなどの楽しみの一環であり当時の庶民には到底届かないほど高額だったことも関係しているとされています。

明治42年ごろの写真で、当時の跡見学園の女生徒たちを撮った写真が現在も存在していますが、あえて表門の外から移したお洒落な構図は「跡見髷」と呼ばれた跡見女学校の当時のヘアスタイルを知る上でも非常に重要な一枚だとされています。

また、跡見女学校の付近には写真館もあり、当時の女学生たちにとって写真撮影はステイタスの一つだったとされていたようです。

写真絵葉書の流行が横浜写真の衰退を呼ぶ

幕末から明治時代における写真機や写真技術の進歩に貢献した写真の始祖であった上野彦馬とも交流があったフェリックス・ベアドは、イタリア系帰化イギリス人で横浜写真を作り上げそれを数多くの日本の写真家が受け継ぎ現在の写真機や写真技術の発展に貢献した一人でもあります。

横浜写真は来日した外国人向けの土産用として撮影された写真で、日本独自の風景や風俗写真を明治時代に横浜で製造・販売していたことからその名で呼ばれるようになります。

彼らが作った写真は一枚一枚丁寧に彩色されており、この横浜写真によって日本が「東洋の神秘の国」として世界に認知されたと同時に重要な輸出品の一つでもあったのです。

しかし、明治30年以降になると写真製版技術の発達によってそれまで主流だった食塩で溶いた卵白を塗って乾燥後に硝酸銀で処理した印画紙を使用する手間がなくなったことと、明治33年の郵便規制改正によってコロタイプ印刷による絵葉書が流行したことから、徐々に横浜写真も衰退の一歩を辿るようになっていきます。

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