c The New York Public Library
日本の伝統文化として美しい練り切などの和菓子から、大福や団子、おはぎなど実に様々な和菓子が日本には存在します。
しかし、「和菓子」と呼ばれるようになったのは実は明治時代からということをどれくらいに人が認知しているでしょうか。
和菓子は唐菓子(からくだもの)の影響が大きかった
和菓子と言えば誰もが思い出すのはお茶の席などで見受けられる色とりどりの可愛らしい形をした和菓子ではないでしょうか。
今では一般的となった和菓子は、実はさかのぼること遣唐使の時代に唐から持ち帰った唐菓子(からくだもの)に大きく影響を受けているとされています。
唐菓子(からくだもの)は、米や麦、大豆や小豆などをこねたり揚げたりしたものを特徴的な形にかたどったもので、祭事用として用いられることが多かったようです。
そして、鎌倉時代に茶の湯の流行が始まると同時に様々な和菓子が開発され、結果的にそれが和菓子の発展へとつながっていったとされています。
戦争の多かった江戸時代以前は菓子を楽しむ余裕もなかったのですが、江戸時代に入ると平和になった世の中で菓子作りに情熱を捧げる人々が増えて職人が知恵を絞り様々な種類の和菓子が誕生したとされており、現在食べられている和菓子のルーツは江戸時代に生まれたものが基盤となっているようです。
その後、明治時代に入ると欧米の影響を受けてさらに飛躍し、様々な和菓子が生まれていきます。
つまり、日本の和菓子は古来より様々な国の影響を受けつつ、加えて日本人独特の創造力が重なったことでありとあらゆる種類の和菓子が誕生したのです。
日本にはもともと和菓子という概念がなかった?
日本にあるお菓子を「和菓子」というようになったのも、実は明治時代以降とされていることをご存知でしょうか。
それまで、南蛮菓子や中国菓子など様々な国の影響を受けていた日本のお菓子ですが、だからといって日本に存在するお菓子はただお菓子であり、「和菓子」という位置づけはしていませんでした。
しかし、明治時代に入って西洋の文化が入ってくると同時に、様々な西洋のお菓子も輸入されるようになるとさすがにただお菓子と呼ぶだけでは日本古来のお菓子なのかそれとも西洋から来たお菓子なのかを区別するのが難しくなってきたのです。
そのため、日本に昔から存在するお菓子のことを「和菓子」、南蛮菓子や阿蘭陀菓子を「西洋菓子」と呼ぶようになったとされています。
明治時代に入って西洋のお菓子が入って来なければ現在の日本のお菓子も「和菓子」と呼ばれることはなかったのです。
日本の和菓子と西洋の食べ物との奇跡のコラボ「アンパン」
明治維新の時代となると、今まで日本になかった様々な食材やお菓子が西洋から入ってくるようになります。
バターやミルクなど、日本人が食べ慣れていない食材も初めは人気がなかったものの、徐々にそれらの材料を使ってお菓子を作ろうと考える人々が増えてきます。
その中でも、日本の伝統的なお菓子である小豆を砂糖で甘く煮たアンコと、西洋の主食であるパンをベースに作られた「アンパン」はまさに日本と西洋の良いところをコラボした奇跡のお菓子と呼べるでしょう。
元々パンは、江戸時代にすでにポルトガルから入ってきていたのですが、当時のパンはぱさぱさで味気もなく、ずっと米ばかりを食べてきた日本人にとってはあまり馴染みがないので人気がなかったとされています。
しかし、明治時代になってもっと食べやすいパンが輸入されたことによってパン食ブームが起きます。
そのパン食ブームに目を付けてパン屋・文英堂を開店したのが木村屋の初代となる木村安兵衛であり、その後明治天皇がいたく気にったことによりアンパンの認知度が上がり、木村屋三代目である木村儀四郎の手によって庶民の間でも愛される日本の菓子となったとされています。