明治時代の大阪はどんな感じだった?

c The New York Public Library

ユニバーサルスタジオや道頓堀、大阪城はもちろん海遊館など、様々な観光スポットや美味しいものの魅力で溢れた大阪は、明治時代にはどのように栄えていたのでしょうか。

歴史を紐解くと、意外なことが分かります。

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明治時代以前の大阪は?

「天下の台所」として、江戸時代からすでに流通の拠点として栄えていた大阪は、全国から様々な食材が集まりそして国際貿易も盛んな経済都市として非常に栄えていました。

また、経済都市として発展する一方で、近松門左衛門と竹本義太夫が旗揚げした人形浄瑠璃の「竹本座」がコンビを組んで人気を博した「曽根崎心中」や、井原西鶴の「好色一代男」、「雨月物語」などの文芸文化も開花していったようです。。

学術・教育面においてもユニークに発展していったとされており、食文化や経済都市としてだけでなく文芸文化や学問においても大阪は独自の進化を遂げていったとされています。

明治元年、大阪が国際都市に

江戸幕府が崩壊し明治政府となったその時、同じく大阪も国際都市として諸外国に開かれるようになります。

明治元年には、諸外国の軍艦の祝砲が響く中、大阪が開港市として認められ、翌年には正式に開港市に改められると外国の船舶が堂々と大阪に乗り入れることが可能になったとされています。

川口波止場には様々な物資が陸揚げされ、一方で電信局も作られたことから西洋文化や風俗の受け入れ口となったのです。

明治7年になると、外国人が多く住んでいた居留地の対岸にある江之子島に大阪府庁建設されますが、この正面玄関が居留地に向けられていました。

その理由としては、やはり海外からくる様々なものを受け入れる最初の玄関口、という意味があったのかもしれません。

関東の人間が関西方面、特に大阪に行くと何となく同じ日本なのに異国情緒あふれる感じがあり、またなんでも受け入れてもらえる錯覚に陥るのは、そのように大阪が明治時代の頃から諸外国や様々な文化の受け入れを担ってきたからではないのでしょうか。

大阪の発展は海外との交流にあった?

大阪がここまで発展した背景として、海外との交流が大きかったと言えます。

居留地には外国人が多く住んだことから、理髪店や洋服店、洗濯屋など様々な店舗が並び、さぞ異国情緒あふれる風景だったのではないでしょうか。

その後、大阪城付近には本格的な造幣工場となった「大阪造幣寮」が開業したこともあり、重化学工業や紡績業の発展により産業の中心ともなっていきました。

明治21年に公布され、翌年に実地された市制町村制に基づき、大阪市は東・南・西・北の4区を市域として発足されます。

ただ、京都・東京・大阪の三都市は特例が適用されたことから明治31年に特例が廃止されるまで、それぞれの府知事や書記官が市長や助役を努めることとなったために大阪市は発足直後は市役所のない状態だったとされています。

大阪の発展は日本の近代化を進める上で重要な発展であったと言えるでしょう。

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