明治時代に大学に進む人はほとんどいなかった?

c The New York Public Library

最近では大学に入ったは良いものの奨学金の支払いが大変で中退する人も少なくないようですが、明治時代は学生が制定されて中には最高学府である大学に進む人もいたとされています。

明治時代の大学はどのように進学するものだったのでしょうか。

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そもそもは大学は学制から始まった?

大学を考えるにあたっては、そもそも明治時代に始まった学制について考えていく必要があります。

学制は、明治6年にフランスの学制を参考にして日本で初めての近代学校制度を定めたのが始まりです。

大学、中学、小学校の三段階に定められ教育の機会が開かれるようになるのですが、明治時代当初はその学校制度に必要な建物や教育費などは国民が負担することとなっていたために、やがて廃止されるようになります。

明治12年になると学制が廃止され、今度はアメリカを模範として学校の設置や就学義務などを地方に任せる教育令が出たものの、これもやはりうまくいかなくなり、明治19年に「小学校令」が勅令され、3~6年制の尋常小学校の教育課程が日本における初の義務教育課程と定められるようになりました。

ただ、小学校卒業後の進路は人それぞれで、中学校に進む人もいればその後働きに出る子もいて、男女によっても進学のルートは変わっていたため、現在のように誰でも進学して大学まで進む、ということはなかったとされています。

明治時代唯一の大学は帝国大学だけ?

今では数多く大学も存在し、1流、2流、3流と大学のレベルにも差があるところもありますが明治時代の大学と言えば帝国大学が唯一の大学とされていました。

帝国大学は、明治10年に創立の東京大学が明治19年に「帝国大学」と名称を改め帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関であり、日本の最上位の国立高等教育機関あるいは研究機関として設置されました。

明治30年になると、「京都帝国大学」が創立され、もともとの帝国大学は「東京帝国大学」に改められるようになります。

その後、北海道や名古屋、大阪などいくつかの地域に帝国大学が創立され、最終的に内地に7校、外地に2校が設置され、今日では「旧帝大(旧七帝大)」と呼ばれることもあるようです。

明治時代当時、大学、あるいは大学院という存在がなかったことから複数の専攻科が設置されたほかに大学院としての機能も同じく設置されていたようです。

帝国大学に入る人というのは、まさに頭が良いこともさることながらエリート中のエリートであり、家柄なども申し分ないお坊ちゃまや官僚の息子などが入学するのが一般的だったのではないかと思われます。

さらに、前期高等教育で外国語による教育を行っていた旧制高等高校とは非常に密接な関係にあり、定員数が等しかったことからありもちろん試験なども存在したはずですが学部を問わなければ旧制高等学校卒業生はどこの帝国大学にも入学することが可能でした。

女子は大学に進めなかった?

大学に進学する人もいた明治時代ですが、それはあくまで男性のみの話であり、女性は明治時代当時は大学への進学を許されていなかったとされています。

女性の場合、尋常小学校まで進むのは男女とも同じですが、その後の進路は男女でも差があったとされています。

女子の場合、概ね3つのルートがあったとされており高等女学校を卒業後、女子高等師範学校へ進む場合と、高等小学校を経て師範学校、さらに事業学校へ進む人もいれば、事業学校から事業補習学校に進む人もいたとされています。

ただ、これは良家の子女など恵まれた家庭の女子のお話であり、ほとんどの場合は尋常小学校卒業後は高等学校にも大学にも進学を許されずに就職するか家業を手伝うかの進路しか選べなかった人も多かったのではと思われます。

明治時代においても、教育の格差というのは存在した、ということになりますね。

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