明治時代に日本が文明国になる必要があったその理由は?

c The New York Public Library

江戸幕府が崩壊し幕末から明治維新が起こった際に、文明国となるべく日本が各国欧米に肩を並べるために行った対策とはどんなことだったのでしょうか。

そして、明治時代に文明国になる必要があったその理由はどんなものだったのでしょうか。

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明治時代になぜ日本が文明国になる必要があったのか

江戸時代まで、時々は外国とやり取りをしていたこともあったものの、基本的には世界との接点を一部の地域でしかやり取りをしていなかった日本が、なぜ明治時代となり文明国になる必要があったのでしょうか。

その理由としては、ほかのアジアの国々ように植民地の対象として見られるのではなく、日本が欧米列強と肩を並べられる位の文明国であることを示す必要があったからです。

欧米に非文明国と思われてしまっては、そのまま日本の土地を植民地化されて欧米の支配の下に生きながらえていかなければならなかったかもしれません。

欧米諸国に文明国だと思われるために、日本は廃藩置県や五箇条の御誓文、廃刀令などを行い近代化に本を目指して様々な対策を行って言ったとされています。

明治政府が失敗した鹿鳴館外交

欧米諸国に日本を文明国だと理解されるために行った政策の中で、もちろん失敗した政策もあるとされています。

明治時代の特徴的な建造物と言えば、西洋建築で作られた鹿鳴館が有名です。

なぜそのような建造物が建てられたのかというと、まさに欧米各国に日本を文明国だと理解してもらおうという明治政府の政策の一つでした。

外国の賓客や外交官を接待するために作られたこの鹿鳴館で行われる外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれていました。

現在で言えば、迎賓館の役割をしていたということになりますが、その総工費は5億6000万という破格の値段だったとされています。

鹿鳴館の計画を勧めたのはその当時外務大臣であった井上馨であり、外国の賓客や外交官を正しく迎えるための建物を作り、そこで不平等条約の改正や治外法権の撤廃などを求めた外交が行われていたのです。

ただ、この鹿鳴館外交は表面だけの真似ごとをしているに過ぎなかったため、結果的に失敗に終わったとされています。

夜毎、西洋の舞踏会を真似たパーティーが開かれていたものの、舞踏会そのもののルールやマナーを良く知らない日本人は非常識なことを行ったために外国人からは嘲笑の嵐であったとされています。

結局、日本を文明国として認めてもらうことはできずに、鹿鳴館も4年という短い歳月で幕を閉じることになるのです。

本来の気質や生真面目さが日本を文明国にすることができた?

日本が明治時代に文明国として海外各国に認められるために行った政策は、失敗だったこともありますがそのまま日本の近代化を目指す基盤となり、日本は文明国として急成長を遂げていきます。

交通や通信、衣装や食文化など西洋の文化を数多く受け入れそれを日本人の生活や気性に見合うようにアレンジしたものは、現代の日本にもたくさん引き継がれているものも多いです。

始めはただ西洋の真似ごとをすることで文明国を気取っていた日本でしたが、生来の日本人の誠実さや生真面目さが相乗効果を生み、日本を今現在のような先進国に導くことが出来たのではないでしょうか。

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